吉永小百合さんの人物像
父の吉永芳之は、九州耐火煉瓦、外務省嘱託をへて、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。飯島正、双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗している。
母方の祖父は、英文出版社の大観社社長の川田友之。叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーであった川田泰代がいる。
「日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは話題となった。
ブロマイドが爆発的に売れ、1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に輝いた。当時、吉永はまだ高校生。彼女と共に青春時代を歩んだ世代に「サユリスト」と呼ばれるファンが多い。有名人ではタモリ、野坂昭如らが有名である。
吉永主演映画の原作者でもある川端康成、石坂洋次郎といった大作家にも非常に気に入られ、川端は吉永に会いたいために山奥の伊豆の踊子のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を書いた。
日本映画の衰退期と重なったこともあるが、結婚相手が15歳も年上の業界関係者で役柄のイメージに合わず、結婚に反対する両親との仲違いも報道されたりもした。当時の邦画界には、ヌードも辞さず大胆に現代女性を演じる若手女優が多数登場しており、吉永が1960年代に演じ続けた「清純なお嬢さん」像は類型的で古臭い印象になってしまっていた。子役出身の俳優にしばしば見られるように、娘役から大人の女性への脱皮がスムーズに行かなかったとも言える。1975年(昭和50年)、『青春の門』で初めて「清純なお嬢さん」を脱する演技を披露した。
デビュー時代以外はテレビドラマには縁の無い印象であるが、映画出演の減り始めた時期に、東芝日曜劇場やNHK大河ドラマにも出演している。1981年(昭和56年)の『夢千代日記』(NHK)では、大人の女性としての情感を豊かに表現して話題となる。この時期から、評論家に演技力に難をつけられながらも、大女優の風格をもつ女優という評価を受け始めた。「サユリスト」復権も同時期であり、邦画冬の時代にも定期的に出演作が製作され現在に至る。
広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』(NHK)で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。現在では女優としての活動のほか、反戦・反核運動をライフワークとしている。
最近のテレビ出演はほぼCMのみであり、映画中心に活動している。
確定申告手続で各社の取材を受けた際、同席していた当時の大蔵大臣に「この税金は戦闘機を買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになることに使って欲しい」と釘を刺した。
西武ライオンズと早稲田大学ラグビー部のファンとして有名である。前者については、1996年オフの清原和博の読売ジャイアンツ移籍について、「あの時(1987年の対ジャイアンツ戦で日本一を決めた、日本シリーズ第6戦のこと)の涙は何だったの」とコメントしていた。この結果、清原ファンをやめている(西武ファンは継続)。また、清原も吉永のファンである。
夫から教わった将棋も趣味の一つとしており、将棋棋士の大内延介と交遊があった。また、1976年の「将棋会館」建設にあたって多額の寄付をしている。
『吉永小百合 街ものがたり』(TBSラジオ)の中で、鉄道ファンであることも告白した。
2005年、西武鉄道グループ(西武ライオンズを含む)の当時のオーナーであり、吉永のファンでもあった堤義明から軽井沢の別荘を格安で買ったと報じられた(週刊文春2005年3月10日号)。吉永は「通常の売買契約に基づき行っております」と弁明している。
健康維持の為、水泳を永年続けており常に水着を持参しプールがあればどこでも泳いでいる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
吉永小百合さんのような歳の取り方をしたいですね。
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